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大墳墓計画

レオナルドの遺産-第05講-

レオナルドはミラノ宮廷時代に建築家としての活動記録がある。代表的なものは、ミラノ大聖堂の交差部屋根の設計であり、1487年8月から翌年1月にかけて報酬が支払われた記録も残っている。

それに先立つフィレンツェ修業時代には、所属していたヴェロッキオ工房がフィレンツェ大聖堂クーポラ頂部の銅球設置を請け負っていたりしたので、建築や工学に関する経験もある程度積めていたはずだ。

ミラノ宮廷の同僚には、盛期ルネサンスの代表的な建築家であるドナート・ブラマンテもいたし、サン・レオの要塞などでも知られるフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの滞在中には直接教えを乞うなどもしている。後者からは軍事面でも多大な影響を受けており、一方前者は建築全般に関する師だったと思われる。ブラマンテは古典復興の実践者として、古代の円形神殿形式も復活させているので、レオナルドが中世のゴシックやロマネスクの典型的な様式ではなく、それら以前の様式である集中式プランを中心に据えたのも当然の成り行きと言える。

こうして彼は集中式プランを持つ教会のスケッチを何度か描いており、本展でもそのうちのひとつを復元対象とした。やっかいなのはレオナルドの平面図と外観図に矛盾がある点だが、レオナルドは理詰めの設計士というよりはむしろ建築意匠のデザイナーとしての側面が強いので、ここでは主として外観図をベースに、平面図とのギャップを最小化できる復元設計を目指した。

彼の建築のなかでも、大墳墓計画は異彩を放っている。ピラミッドを彷彿とさせるその壮大さと古代性。墳墓という用途自体、同時代の建築には例がない。エトルリア風の墳墓とみる見方もあるが、実のところ、エトルリアの墳墓とも大きく様式を異にする。

あまりに異質なため、また手稿の一紙葉ではなくいわゆる独立素描の一例であるせいもあって、レオナルドへの帰属自体に疑念を呈する意見もある。そのことを考慮してもなお、この大墳墓計画の壮大さは、巨大な騎馬像や飛翔実験として表出したレオナルドの飽くなき野心と挑戦心を映し出しているようには見えないだろうか。

画像: レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミラノ大聖堂交差部屋根のためのスケッチ、『アトランティコ手稿』、f. 850r.

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