コラム

  1. HOME
  2. コラム
  3. 母親は何者か

母親は何者か

レオナルドの遺産-第03講-

リオナルド、セル・ピエロの息子。彼と、今はアカッタブリーガ・ディ・ピエロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチの妻であるカテリーナとの間に生まれた、五歳。

 

祖父アントニオが1457年2月27日に書いた書類も残っている。税控除のための申告書で、この年レオナルドは5歳になる。この文書のおかげで、レオナルドの母の名がカテリーナであること、そして彼女がレオナルドの父セル・ピエロとは別の男性と結婚したことがわかる。

カテリーナの資料は少ないので、彼女がいったい何者であるか、これまでさんざん議論されてきた。なかにはゴシップ記事的な説もあるのだが、レオナルド芸術のうちに母性愛が占める部分も多いので無視もできない。

これまでカテリーナは、ダ・ヴィンチ家が所有する領地に住む小作農の娘で、身分違いのためにセル・ピエロと結婚しなかったものと思われてきた(私もこの考えだ)。具体的な名前も提起されていて、例えばケンプとパッランティは、1436年に貧しい農家に生まれたカテリーナ・リッピとした。この女性は14歳の時に両親を亡くしており、幼い弟とともに祖母のもとに移ってきたが、その祖母も1451年に世を去っている。そのため、羽振りの良いセル・ピエロと関係を持つにいたったのではないか、という筋書きだ。

ほかに、セル・ピエロの家にカテリーナという名のアラブ系の奴隷がいたとする、チャンキによる説などがある。レオナルドの絵に残る指紋の分析によって、アラブ系の血統が高確率で認められると人類学者が補強している。

驚かされるのは、カテリーナは中国人であるとのパラティコ説だ。1427年か1434年に中国に生まれ、1443年にモンゴル軍に捕らえられてヴェネツィアの奴隷商人に売られ、その後フィレンツェの銀行家セル・ヴァンニ・ディ・ニッコロによって買われて、その妻アニョーラの奴隷となった女性ではないかとの説だ(もちろんカテリーナはイタリアでの洗礼名ということになる)。

いずれにせよカテリーナは、レオナルドを産んでほどなく、近所の窯焼き職人であるアントニオ・ブーティ・デル・ヴァッカ(通名のアカッタブリーガは「喧嘩っぱやい」の意)の妻となった。カテリーナはその後、アカッタブリーガとの間に男児フランチェスコと四人の女児を生む。フランチェスコは長じて傭兵となり、1491年頃に戦死したことがわかっている。

 

写真: カテリーナとアカッタブリーガの子らが洗礼を受けたサン・パンタレーオ教会

関連コラム