レオナルドには五人の母がいる
レオナルドの遺産-第04講-
レオナルドの実の母カテリーナは、セル・ピエロと正式な結婚をすることなく他家に嫁いでいった。当時の乳児を育てる環境からみて、おそらくしばらくの間、カテリーナは住み込みか通いで自ら授乳をしてからヴィンチ村をあとにしたはずだ。
父セル・ピエロは、レオナルドが生まれて八か月後に正式な結婚をしている。相手はフィレンツェの靴製造業者アマドーリ家の娘でまだ16歳のアルビエーラで、フィレンツェでひとはた揚げたいセル・ピエロにとって、ねがってもない縁談だった。
アルビエーラは28歳前後で遅い妊娠をした。12歳になっていたレオナルドにとって初めての異母弟妹だ。しかしアルビエーラ本人も、生まれた娘も、出産の同年か翌年に相次いで亡くなる 。その翌年にはフランチェスカ・ディ・セル・ジュリアーノ・ランフレディーニという新しい母が来る。わずか14歳だったフランチェスカは8年間ほどの結婚生活の後、おそらくは出産時の感染症かなにかで世を去った。
三人目の妻マルゲリータ・ディ・フランチェスコ・ジューリは、結婚した1475年頃から亡くなるまで約10年間で7人の子の母となる。長子アントニオが生まれた時、セル・ピエロは49歳、レオナルドもすでに24歳になっている。その瞬間、非正嫡であるレオナルドは自動的に遺産相続の正式な権利をすべて失った。
四番目の妻ルクレツィア・ディ・グリエルモ・コルティジャーニは、レオナルドより年下である。彼女も8人の子をもうけたので、結局レオナルドには、ひとりの実母と4人の継母、そして16人もの異母弟妹がいたのだ。
それにしても妻が短命だが、これはひとえに当時の衛生環境と医学知識の不足による出産時死亡率の高さのせいである。夫ばかりが生き続けるので、当時の街には男女間でやたらと年齢差のある夫婦が多くいた。その一方で四人に一人が独身のまま一生を終えていたのだから、うまくいかないものだ。
出産時の感染症による死亡(産褥死)は、女性の英雄的な死として、男性の戦死と同じ扱いをうけた。レオナルドの師ヴェロッキオの手による、フィレンツェの名家の娘フランチェスカ・トルナブオーニの墓碑を、ここでは例として挙げておこう。
画像: アンドレア・デル・ヴェロッキオ、<フランチェスカ・トルナブオーニの死>、1477年、フィレンツェ、バルジェッロ美術館